いのちの食べかた

「食卓に並ぶいのち。我々が知るべきその歴史を書いた、最高の一冊。」
優しげなイラストとタイトル、そして文体。想定読者は中学生ぐらいだろうか。しかし、すべての人が読んで欲しいと強く願う一冊なのだ。

毎日の食卓に並ぶいのちの欠片。おいしく、楽しく味わうことを邪魔するつもりはないが、少しだけ思い出して欲しいのだ。忘れないで欲しいのだ。いのちにまつわる我々の暗部を。

  1. 第1章 もしもお肉がなかったら?
    1. きみんちの晩ごはん
    2. 僕たちの知らないこと
    3. 牛とのおつき合いのはじまり
    4. お肉を食べないわけ
    5. すき焼きと豚肉の登場!
  1. 第2章 お肉はどこからやってくる?
    1. 牛と豚がやってくる
    2. おいしいお肉はだれのため?
    3. 二つの大問題
    4. お肉ができあがるまで
    5. 職人さんの名人芸
    6. 「人間」という生きもの
    7. いのちを食べるということ
  1. 第3章 僕たちの矛盾、僕たちの未来
    1. お肉禁止令
    2. 僕らはとても忘れっぽい
    3. 大人は、万能じゃない
    4. 「穢れ」って、なに?
    5. 「不浄」って、なに?
    6. 僕たちの「弱さ」の歴史
    7. 村ごと大引っ越し!?
    8. 小さな優越感
    9. 君はすべてを秘密にできるかい?
    10. メディアの過ち
    11. 無限大の傷つけ装置
    12. だまされることの責任
    13. 僕らの麻痺
    14. 忘れられない記憶
    15. 僕たちが生きているということ

目次から、およそ何について書かれているか想像できると思うが、誰しもが持っている人の弱さと、それがもたらした暗部の話だ。センシティブな話題で、そこにあるのに語られない部分。だけど忘れてはならない恥部。

本書の中に、映画監督の伊丹万作氏の「戦争責任者の問題」と云うエッセイからの引用がある。いのちを食べることとどう繋がるかは、ぜひ、本書を読んで確認してもらいたいところだが、そこから一部だけ引用させていただく。

だまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも雑作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己をゆだねるようになってしまっていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。

まがりなりにも民主主義であり、そして "みんなと一緒" であることに安心する国民性があるこの国では、一人一人の無知は、時に取り返しのつかない大きな過ちをもたらす。意識することはなかなか難しいのだけれども、やはり "無知は罪" なのだろう。何も行動を起こさなくていい。だけど知ることからは逃げないで欲しい。ただ知ることだけを。"いのちを食べる" ことから、少しだけ思いを馳せてもらいたいと思うのだ。

僕たちは肉を食べる。つまり生きていた動物たちを食べるということだ。だから、彼らを殺しているのは僕たちなんだ。

その営みを僕は否定する気はない。でもならば、せめてほかの「いのち」を犠牲にしていることを、僕らはもっと知るべきだ。どうやって知ればよいか? しっかりと見るだけだ。目をそむけずに見るだけで、あるいはきちんと見ようとする気持ちを持つだけで、きっと僕たちは、いろいろなことを知ることができるはずだ。

肉だけぢゃない。僕たちはいろんなものから、気付かぬうちに無意識に目をそらしている。見つめよう。そして知ろう。

いのちの食べかた (よりみちパン!セ)

いのちの食べかた (よりみちパン!セ)

もう、十年以上昔のことになるが、当時、一緒に仕事をしていた仲間の一人が、父親の仕事が食肉関係だと言っていた。幼少のころに「危ないから行ってはいけない地域」があった私には、彼が多くを語らなくても、彼の住んでいた場所などから、それが何を意味するか、おおよそ見当がついた。飲み友だちでもあり、遊び友だちでもあった彼との関係は何も変わらなかったけれども、心の中に彼や彼の家族のこれまでの人生に何があったのか、多少の意識があったのは間違いない。差別なんてバカバカしいとは思いつつも、どう接していいのか、若干の迷いはあったよなぁ〜、と、忘れかけていた当時を思い出す。

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確か、この本を買ったのは、たしかこの記事からだったと思う。

404 Blog Not Found:それでも私は屠り続ける +書評+ いのちの食べかた

殺す者と食べる者が別になってから、何が起きたのか?

殺さずに食べる者が、彼らのために生き物を殺して食べ物にする者たちを蔑むようになったのだ。

食べる者たちは絶対的に殺す者を必要としているのに、殺す者が食べる者から得るのは、感謝でもなくましてや賞讃でもなく、侮蔑だったのだ。

なんでそうなったのか。私も知らないし、本書にも書いていない。

いや、強いて言えば、食べる者たちが殺す者を知らないからだ、というのが著者の主張だと感じた。

ん? 私には、仏教伝来による不浄の概念と、食肉の歴史、それから政策の変移とのタイミングで、蔑みが生まれてしまったように読めたけど、それでは納得できなかったのかな?