英語を必須科目に?

「他の方法も考えていると信じているが…。」

一つ目。英語のコンテンツが多いのは、日本語のコンテンツが少ないとも言える訳で、日本語のコンテンツを増やす道もあるのではないだろうか? なぜ英語のコンテンツが多くて、日本語のコンテンツが少ないのか? その点を追求しないと、英語ができても情報受信側である立場は変わらず、英語を追いかけている限り後追いになってしまうに違いない。競争優位に立ちたいと云うよりも、競争に遅れたくない、自分だけが損をするのが嫌だと云う根本思想が見え隠れする気がする。ま、そういう根本思想から急速な近代化が起こったのだろうし、現実に大量にある英語のコンテンツを読めるなら、それはそれで有意義なことだ。

…そうやってそのうち英語が世界統一言語になるのだろう。

二つ目。英語を習得する方法が英語必須化と云うのはナンセンスかもしれない。役に立たない中途半端な教育なら、他の学科に時間を使う方が有意義だろう。本当に英語習得が必要なら、英語を使う機会がないことをどうにかするのが先決だろう。さっそと移民を受け入れて英語を使う機会を大幅に増やせばいいのに…。何かを習得するのに効果を期待するなら、生活への必要性を高めることだろうし。

三つ目。言葉は思考の道具の一つだ。視覚的な思考ツールもいろいろあるが、言語は思考ツールとして重要な位置を占める。語彙が豊富な人はそれだけ認識できる事象も多く、思考の幅や深さも広くなる。強力な思考の道具を…と考える立場としては、しっかりとした日本語教育は重要だと訴えたい。そうは言っても、日本語だけが思考の道具ではなく、また、英語教育との二律背反 (あるいはパイの取り合い問題) とは考えてはいないし、結局のところ、英語教育、日本語教育だけに限定した話ではなく、全体的にもっと品質の高い教育、時間の浪費ではなく実質的に意味を持つ教育を提供すべきと云う結論になるのだが…。