天才の作り方

「目を引くタイトルを付けてみた。:-)」

金髪に染めてたのを強制的に黒スプレーで黒くしたのが人権問題だとか、なんとかもめてるみたいだけど…。うーん、時間の無駄。当人にとっては切実な問題なんだろうけど、時間は有限。そんなことにとらわれてるのはもったいない話だ。結論は決まってて、人権侵害なんだ。慣習や校則と照らし合わせて…と考えると、違うところに結論は落ち着くんだろうけど、なんとゆーか…。

直接的に影響を及ぼそうとするからもめちゃうんだ。もっと有効で違う方法もある。そもそも、小さなことまでこだわって言うことをきかそうなどと云うアプローチがとってもおこがましい。従順な労働者を作る時代は終わったんでないの? 教育の場に立つ人には、そういう立場に立ってものを見てもらいたいんだけど…。子ども達が大人になる 10 年先、20 年先を見越した教育をしないと…。

"天才の作り方" そんなタイトルを付けたのは、教育委員会が決めたカリキュラムなんかどうでもいいんで、尽きることの無い子どもの知的欲求を、可能な限り満たすシステムを作ったらどうかと考えてみたから。

石井式国語教育ってのを知った時、ひらがなから教えるのが当たり前だと思っていた私は、とても衝撃を受けた。

ひらがなが簡単、漢字でも画数の少ないのが簡単だと云うのが常識だけど、実は具体的か抽象的かと云う観点の方が大事で、画数が少なくても抽象度が高いものは難しいし、画数が多くても具体的なものであれば、子どもは覚えてしまう。言われてみれば、私も自分の名前や友だちの名前など、興味のある事柄は早くから漢字を覚えたものだ。ああ、あと、読む能力と書く能力は別物って云う認識も大事。画数が多いのは、やっぱり書くのは難しいし。

これをネタにして思考を広げてみる。そうすると、教育ってのが子どもが学習しやすい順番になってるんぢゃなくって、教える方の都合のいい順番になってそうなことに気付く。例えば歴史。教科書に事象が起こった順に並んでいるのは整理しやすいからに過ぎない。学習効率を考えると、子どもが興味を持つ順番に教える方がよくて、後で「実は、こっちの方が先なんだよねぇ…」で十分だと思う。選挙が近ければ、民主主義を勝ち取った幕末あたりの話を教えちゃう。年末が近づいたら年貢とか百姓一揆にまつわる話がいいかな。メイデイあたりは荘園制度でどうだろう? 登校日にはわざわざ帰省先から一時帰宅して登校してる子どもたちに参勤交代を教えてあげよう。(笑)

そんなことをしたら網羅性がどうなるか分からないぢゃないか…と言う人には、ぢゃあ、「あんたは全部覚えてるのか?」と突っ込んでおく。そもそも教科書に載る時点である種の価値観に基づいて取捨選択されているのだ。事件の大小かもしれないし、物語性の強弱かもしれないけれど、とにかく最初から均等な網羅性なんてないし、どうせ均等に覚えている人なんていない。ぢゃ、発想を変えて均等に教える必要もないだろうとと云う立場を私は取る。試験できない…と云うのは本末転倒で、そんな判断基準に基づいていると試験のために教育してるだけになっちゃう。今がそうだと思うけど…。生徒の能力を知りたいのは分かるけど、だったら試験の方を変えるべき。

子どもの知的欲求はものすごいものだ。尽きることはない…みたい。どこまで知的欲求を刺激できるか、どこまでそれを満たすことができるか、それを追求したシステムを作れば、おそらく天才はボコボコ生まれる。

髪染め問題の話を少しばかり…。問題には大きさの順位がある。当人が認識している範囲における順位で、狭い範囲しか見えてなければその範囲内で大きな問題、小さな問題と考える。学生の方は時間的にも空間的にも狭い範囲しか見えてないから、髪染めを真剣に考えるし、教師の方もまあその支配の及ぶ世界しか見えてないんだろうなぁ…きっと。もし、知的欲求の無限ループシステムが作れるとしたら、天才が生まれるばかりでなく、くだらない問題は取り扱われなくなるに違いない。視野が広がるからだ。広い世界まで見渡せるようになってしまえば、髪染めなんてことがどれほどちっぽけな問題なのかが分かるから、学生の側も教師の側も気にしなくなる。ついでに言えば、いじめや不登校なんかも一気に解決するはず。

…こんなことをつらつらと考えていると、今の学校と云うものは、見方によっては子どもをバカにしたてあげる仕組みかもしれないなぁ…などと思いつつ、まだ、ランドセルを買ってやってないことをふっと思い出すのであった。