罰則

「責任についての考察。」
ここのところ、JR 西日本の職員が私鉄駅の改札口に立っている。そして、全ての乗客に向かって挨拶と侘びの言葉を連呼しているのだ*1。彼らがミスを犯した訳でも無いのに、何のためにこんなことをさせるのだろうか?

医療ミスで辞職したり、事故で減俸されたり、まあ、日本で責任を取るってのはだいたいこういうことなんだけれども、なんか納得できない。辞職や減俸は、被害者になんら影響を及ぼさないから、どうでもいいことなんぢゃないかとすら思っている。で、「責任は取るものではなく、果たすもの。」だと云うのが私の主張なのだけれど…。

責任は、義務、補償、罰則 の 3 種類に分類できると考えている。

義務 "それ" を行わなければならない。
補償 "それ" が行われなかった時に、"それ" に代わる "何か" を行わなければならない。
罰則 "それ" が行われなかった時に、罰を受けなければならない

義務が果たされなかった場合には、補償は新たな義務となる。事故を起こしたら (安全運転責任を果たせなかった)、慰謝料や損害賠償の支払責任が発生する訳だ。

補償と罰則はちょっと曖昧な時がある。例えば損害賠償は財産が減少するため罰則的な感じがしてしまう。でも、もし保険が使えたら財産は減少しないのだから、罰則とは別に分けて考えた方がいいだろう。

で、問題は罰則だ。なんのために罰則があるのかと言えば、「未来における義務の不履行を予防するため」なんだろうけれど、「他の方法を思いつかなかった古い時代の仕組み」ではないのだろうか? 心理学、社会科学などの研究も進んでいるし、機械技術も進んでいる。もっと高度な方法で、精度の高い予防ができると思うのだが、慣習と云うか文化と云 うか、しっかりと根を下ろした価値観になってしまっている。残念なことだ。

罰則に予防効果がないとは言わない。けれど、絶対的な効果ではないし、副作用もでかい。運行遅延に対する罰則を恐れて大事故につながった訳だし、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」的な、間違った方向への暴走へも大きく寄与している。

罰則によって腹立ちが収まるのか? 何か変わるのか? 屈服させることが目的になってしまっていないだろうか? 状況を鳥瞰して、そんなことを考えてみた方がいいと思う。本当の目的はなんなのか? その目的を達成するために、妥協できるところは妥協してもいいのではないだろうか?

TOC 関係で感銘を受けた言葉がある。

問題を「あなた対わたし」から「あなたとわたし対問題」に転換する。

罪を憎んでひとを憎まず…と、聖人君子のような訓示を垂れるつもりは毛頭ないが、そろそろ人の問題とシステム (体制や制度の意味) の問題を分けて考える時代ではないのだろうか? システムの問題は、協力すれば必ず解決できると信じている。

*1:こういうことは報道されてない気がする。