作話

「子どもを観察していることがおもしろい。」

"育児"、"子育て" なんてゆー言葉が、義務感や責任感のプレッシャーの原因なのかもしれない。プレッシャーに負けて、ストレスから暴力や放棄してしまうことがもったいないと思うのだ。観察してるといろいなことがわかって面白いから。

先日の、”クリスマスのできごと” では、とにかくサンタはいると云うことは、よほどのことがない限り揺るがないものらしいことが分かった。存在を否定してしまうと、プレゼントがもらえなくなってしまうから、子どもにすればなんとしても死守したいところなのだろう。だから、つじつまが合ってなくとも、言ってることがさっきと違っていても、空想と事実を混同しようとも、とにかくサンタがいることだけは変わらない展開になるみたい。

おそらく、これは子どもだけに限定したことではないはずで、たぶん人は自分が信じていることをベースに、周辺を埋めてゆくと云う考え方をするのだろう。例えば冤罪。犯人だと思い込んだ人の無実を証明する証拠はなかなか目に入らなかったりするだろうし、見つけた証拠は犯人だと断定する方向で解釈が進んでゆくに違いない。恋愛なんかでも、「彼女は俺に気があるはずだ!」と思い込み、「連絡がないのは厳しい家庭で育ったから…」みたいに、都合のいい理由を付けたりするものだ。痴情のもつれとか言われる犯罪は、都合のいい思い込みが基になってるものがけっこうあるんぢゃない?

だいたい、人生におけるたいていのことは事実かどうかなんて分からない。人生の中で裏付けがあるものは少なく、ほとんどのことは、ある程度の情報を元にして "事実に違いない" と信じているに過ぎない。たくさん本を読んだり、経験が豊富だったりする人がより真実に近づける*1訳で、それらが圧倒的に不足している子どもは、空想を混ぜこぜにした世界を構築する訳だ。その空想もテレビや本で見た世界を基にしてブレンドされたものだから、彼にとっての経験をベースにしていると言うこともできるだろう。

子どもを観察していれば、今まで気付かなかったことが分かったりする。新たな発見を運んで来てくれる貴重な存在なのだ。できることなら、ストレスの基となってしまっている人に、楽しむことを伝えてあげたい。

*1:まあ、読む本や経験によるのだが…。