自尊

「人は、他人を見下さずにはいられないのか?」

器用に誰かに迎合したりできない性分のせいか、話を聞いていてつらいのが、誰かが他人を卑下するような表現を含む話だ。例えば、ある文章にちょっとした技術用語が書いてあったとする。違う人がそれを読むと、文脈からして意味が少しおかしかったり、どうとでも解釈できる時などに、「どこが ○○ (適当な技術用語を当てはめてくだされ) やねん! ぜんぜん、分かってないくせに…。」と悪態をついたりする。その人にしても、深く理解している用語もあれば、見栄や流行でなんとなく使っている言葉もあるから、他の技術用語になると当の発言者に対して同じような指摘と合わせて、さらに自己矛盾を指摘しそうになる。ま、自己矛盾パターンでなくとも、誰かが誰かを卑下する表現を聞くのはつらいものだ。

言葉はかなり曖昧なもので、人によって意外と解釈が異なるものだ。厳密そうに思える技術用語でもけっこう曖昧だ。マーケティングの都合上で広まった言葉は、特にその傾向が強い。そもそも言葉の厳密性を追求する人は少なく、普通は自分の人生や仕事に支障がない範囲で大意をとらえるぐらいだと思う。だから、違う環境 (会社や経験) の人が会話をすると、けっこう意味がずれていたりする。派生的に期待できるもの*1まで含めると、誤解から大問題に発展することも少なくない。

少し意味がずれていたために期待する反応と違ったりして、徐々にほころびが現れてくるのだが、そこで相互理解の道に進んだりすることは少ない。徐々に見下し始めて悪態をついたりするようになり、小さな齟齬が積み重なってゆき、政治的な交渉事に問題がすり替わったりしてしまう。誤解に基づいているだけだから、問題が小さなうちに誤解を解けば、ややこしい話に発展せずにすみそうなものだが、なぜか、そうはならない。もちろん、全部が全部ではないのだが、かといってレアケースと云うこともなく、小さな誤解は日常的に起こっている。自分が当事者になることも、第三者的立場の時もあるが、どっちにしてもつらいものだ。

お互い運命共同体なんだから相互理解を深めて、よりよい結果を求めた方がいいぢゃない? …と思うんだが、それよりも、相手よりも上の立場にいることとか、見下されないことなんかを大事にしているように思える。もしかしたら、相互理解には膨大な時間が必要で、より良い結果につながらない (時間や費用が何倍にも膨らんでしまうとか…?) ことが分かっていて諦めているのかもしれない。…が、どーも、言葉と云うものがとても曖昧で、いくらでも誤解が生じるものだと認識していないように見える。

自分が他人を卑下したりしないのかと訊かれれば、したことがないとは言えない。特に、自分が正しいことを立証する機会がない場合は、攻撃的な表現を使いがちな傾向があることを認識している。心のバランスを保つために、避けられないことなのかもしれないが、できるだけそうならないよう、常に Win-Win の道を模索し、そこに到達させる努力を続けることを忘れないようにしたいものだ。

*1:晩飯を一緒に食べたら、今晩は OK みたいな…。