乖離
「コミュニケーションは難しい。」
突然だが、スープを作るとする。野菜がたっぷり入ったこだわりのスープだ。底の深い大きな鍋でじっくりコトコト煮込んで、とうとう完成した…ことにする。
それをオタマで器に注ぐ。見栄えにもこだわって、おいしく見えるように彩りの野菜を入れようとするのだが、鍋が大きくて探すのも一苦労だ。煮崩れ寸前のジャガイモや人参を慎重にとり出し、やっとのことで器に注ぐ。
そして、スープの入った器をお盆に乗せて食卓に運ぶ。慣れないことをするもんぢゃない。躓いて、ちょっとばかりこぼしてしまった。せっかく見栄えにもこだわったのに、もったいない…。
食卓には恋人が舞っている…おっと待っている。実は既に食事を済ませた後だったのだが、自分のために作ってくれたせっかくのスープに口を付けない訳にはいかない。お盆の上の木のスプーンですくって、そっと口へ運ぶ。少ししょっぱい。満腹でこの味はつらいと思いながらも、何度か口へ運び、自分のために誠意を尽くしてくれたことに対して感謝の言葉を述べる。「インスタントにしては、なかなかおいしいね。」
閑話休題。
自分の意思をなかなかうまく相手に伝えられないのはなぜだろうか? その原因を探る第一歩として、頭の中に浮かんだ伝えたい事柄と、それを文章や言葉にしたものを分けて考える。それぞれ "思念"、"表現" と呼ぶことにする。伝いたい事柄が頭の中にある間は、ぜんぜん整理されてなくって、ぼやけていたり、混沌としていたりする。ちょうど、大きな鍋の中のスープみたいなもんだ。
混沌とした思念を、少ない語意と貧弱な表現力で、なんとか文章や言葉にする。おっと、貧弱なのはここの日記のことだった。いつも拙い表現で申し訳ないけれど、深い鍋から小さいオタマで、崩れないように見栄えのいい野菜を取り出すのは難しいのだ。盛りつけてみると、どうも最初に思い描いていたイメージとは違うんだよなぁ…。器に注いだスープが表現に相当するのだけれど、鍋の中から取り出した、ホンの一部に過ぎない訳だ。
で、相手に聞こえるように話したり、メールを送ったりするのだけれど、ちょうど電車が来て声がかき消されたり、一部の文字が化けてしまったり、相手の集中力が散漫だったり、そもそも聞く気がない、読む気がないなどなどで、相手に 100% 届くとは限らない。途中でこぼしたりして、食卓まで無事にスープを届けられないこともあるのと同じように。
相手はロボットぢゃないから、言葉を 100% 額面通りに受取るとは限らない。仮に 100% 受取ったとしても、それは器に盛られたスープでしかない。まして、調理過程なんて知る由もなく、もともとの鍋の中のスープのことなんて、分かるはずがない。
それに加えて、インスタントスープだと思わることがあるように、日頃の行いなんかの情報を元に、言葉にしていない部分まで勝手に想像したりする。声の抑揚や表情なんかも情報のうちだ。味よりも気遣いに感謝してスープを口に運ぶように、こちらが期待したのとは違う意図が汲み取られたりもする。
コミュニケーションはこんな感じで流れている。もし、お互いの思念を比べることができたら、そのあまりのギャップに驚愕するに違いない。
- 編集時 - 思念から表現の段階で、欠落、変貌する。
- 通信時 - 相手に伝わるまでに欠落、変貌する。知らない単語を使って、サラッと流されてしまったり。
- 解釈時 - 相手が表現を基にして思念を構築する時点で、欠落、変貌する。違う経験に基づいてるのだから当然だ。
誤解しているのが当たり前で、誤解がない方が奇跡に近い。もっとも、大半の会話は誤解に気付かないか、気付いたとしても大きな問題ではない。インスタンスは別でもクラスで合意できているからなんだけれども…。これは普通の言葉で説明するのは難しいなぁ…。時には誤解から新しい発想が生まれたりもするわけだし、悪いことばかりでもない。
でもさ、契約とか仕事ではそれはちょっと問題だ。誤解があって当たり前だと云う心構えと、誤解を少なくする工夫が必要だと思う訳だ。考えが一致していることを前提にして進めるのは、大きなリスクを伴っていると思うんだよねぇ…。
「私たち、愛し合ってまーす。」と信じるのもいいんだけど、年々、離婚率が高くなっている現実も見なきゃね。